WELLBOND 拡散接合 情報館


HOME

活動・調査報告

拡散接合とは

拡散接合の実用例

拡散接合面は

拡散接合の原理

拡散接合の仲間

拡散接合の本

陽極接合

大橋修の経歴

WELLBOND

LINK

 

接合関連情報

拡散接合 Q&A

金属技術史

登録有形文化財「明治の館」と日本初の蓄音機

栃木県日光市での「おすすめランチ」を検索すると、上位にヒットするのが、「西洋料理・明治の館」です。ランチタイムの一番人気メニューが「オムレツライス」です。「登録有形文化財」に登録されている明治時代の建築物内での食事の他、日本初の蓄音機も見学できます。

meijinoyakata

登録有形文化財「西洋料理 明治の館」で、ランチを楽しむ

この洋館は、明治の末期にアメリカの富豪F.W.ホーン氏が別荘として建てたものです。ホーン氏は明治29年(1896年)の来日に併せ、横浜に機械工具等の輸入会社としてホーン商会を設立、 機械工具の輸入を始めます。翌年、蝋管蓄音機の輸入を手がけ、蓄音機並びにレコードの紹介・普及に努めました。日本におけるレコード歴史の第一歩を踏み出しました。 その後、明治40年(1907年)日米蓄音機製造株式会社を川崎に設立し、わが国におけるレコード産業の草分けとなります。
明治42年(1909年)国産レコードの製造を開始、その販売機関として銀座に日米蓄音機商会を開設します。翌年、明治43年(1910年)株式会社日本蓄音機商会(後の日本コロンビア)を創設し、商標「ニッポノホーン」に統一し、記念すべき国産第一号蓄音機の製造および販売の運びとなります。
 これより以前は、高価な輸入品は一般大衆の要望とはおよそ隔絶した上流階級の娯楽品の感がありました。それを何人にも手に入りやすい価格で国産蓄音機を大衆に提供した事は、日本における蓄音機産業のエポックです。
そして, 大正8年(1919年)のアメリカ帰国の時まで、わが国における蓄音機発展の最大の功労者であり開拓者であるF.W.ホーン氏は,まさにわが国における蓄音機の父と呼ぶにふさわしい人物です。
「明治の館」のお土産売り場の一角に、国産第一号蓄音機「ニッポノホーン」が展示してあります。駆動装置は、右側にあるハンドルで、装置の中のゼンマイで、レコード版を駆動、ピックアップからの機械的振動を大きな形のスピーカから音が出ます。
 You tube で、「昭和初期のレコーディングと蓄音器についてのよもやま話|古関裕而企画展オンライントーク」の動画があります。この動画の後半(29分)に、この蓄音機で再生した、音丸の「船頭可愛や」等が聴けます。コロンビア技術陣の賜物です。

player

国産第一号蓄音機「ニッポノホーン」

pick up

国産第一号蓄音機のターンテーブルとピックアップ


この建物は重光葵氏の疎開先としても使用されました。昭和20年5月の東京大空襲で、重光葵氏は屋敷を消失したため、この地へ疎開されました。重光氏の日記によれば、日本の敗戦をどう処理するか苦悩したことであり、また東京との往復は警察の自動車を使っていたとも記載されています。昭和20年9月2日の降伏式典に政府代表として調印されました。

F.W.ホーン氏が建てたこのアメリカスタイルの別荘は、当時の日光の匠の粋を尽し、時間を惜しむことなく「乱れ石積み」の技法を用い、壁面全てを日光石で積み上げた貴重な近代遺産です。 また、終戦時の外務大臣・重光葵が東京大空襲で家を失った際に、一時この邸宅に疎開され、ここから降伏文書の調印式に向かわれました。そんな歴史やドラマを背景に昭和五十二年、明治の近代遺産としての姿を残しつつ、「西洋料理 明治の館」としてオープンしました。 その後、平成18年、明治時代を代表する貴重な建造物として「登録有形文化財」に登録されました。

 

戻る