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筑豊炭田を訪ねて


 昭和20年代の後半には、私が通った小学校の暖房が木炭から石炭に変わったのを記憶しています。また、小中学校の社会の授業では、「筑豊炭田」について学び、炭田の主要都市「直方」、「田川」、「飯塚」を学んだ事を記憶しております。また、土門拳の写真集「筑豊の子供達」も記憶にあります。
 石炭については、石炭エネルギセンターのHPにある、「石炭の開発と利用のしおり」が、現在の石炭について非常に分かり易い資料です。
 最盛期には、45万人以上が炭鉱で働いておりました。石炭から安価な石油への転換が進み、国内での石炭の生産は急速に減少して、北海道の8炭鉱のみで生産されているようです。現在、日本は世界で最も多くの石炭を輸入しています。日本では、石炭火力と製鉄に大量に使用されています。

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博多駅に降り立って、観光センターで、「筑豊炭田」の観光資料をお願いしたところ、長い時間かかって、ようやく手にしたのは福岡県内の「歴史めくりマップ」でした。その中には「田川市石炭・歴史博物館」が掲載されている資料のみとの事でした。石炭とともに、「筑豊」も忘れられたのでしょうか。石炭で栄えた「筑豊」を訪ねました。
 筑豊炭田は「筑前国」と「豊前国」に跨がっている事から、この名前で呼ばれました。八幡製鉄を背景に抱えているため、戦前日本では最大規模の炭田でした。筑豊炭田は、室町時代に薪よりも効率の良い燃料としても知られたようです。また、江戸時代には製塩のための燃料として用いられ、明治に入り民間人による炭坑開発が積極的に進められました。
 また、八幡製鉄所の建設開発と同時に、財閥の炭坑開発が活発化しました。戦後も日本一の石炭産出量を誇っていましたが、1950年代後半からエネルギーの主体が石炭から石油へ移行し、効率の低い炭鉱を廃止する政策が進められ、1976年に全ての鉱山が閉山しました。閉山に伴って多くの失業者が発生し、その結果、生活保護受給者割合が急激に増え、大阪、北海道、高知についで4番目が福岡となっています。

1. 直方市石炭記念館

 直方駅から、徒歩10分で記念館に到着。本館は明治43年に炭鉱経営者で組織された筑豊石炭鉱業組合直方会議所として建設され、市の文化財に指定され、現在保全作業が行われておりました。別館の展示で記憶に残ったのは、石炭の輸送手段でした。江戸時代までは川船による運搬でしたが、大量高効率輸送の目的で鉄道建設が進められました。昭和20年代の鉄道路線図を見ますと、田川などの採炭地から直方へ石炭を運び、そして若松港へ直送していました。閉山でその役割を失い、多くが廃線となり、また第3セクターに変わったようです。また、ガス爆発や落盤等の炭鉱災害の際の「救護訓練坑道施設」も残っておりました。

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救護訓練坑道施設

2. 田川市石炭・歴史博物館

 田川伊田駅をおりて10分で、都市公園である「石炭記念公園」に到着。ここは、筑豊随一の炭鉱「三井田川鉱業所伊田竪坑」の跡地で、公園として整備されております。伊田竪坑第1と第2煙突。高さが約50メートルあります。また、
深い坑道へ資材や、炭坑夫を運ぶ「三井田川鉱業所伊田竪坑櫓」設備が保存されています。
「***あんまり煙突が高いので、さぞやお月さん、煙たかろ***」と、盆踊りなどで唄われる「炭鉱節」。お月さんを煙たがらせたのがこの煙突です。「炭鉱節発祥の地」の石碑がありました。これに隣接して、「田川市石炭・歴史博物館」があります。日本唯一の公立の石炭博物館で、体系的な炭鉱資料、機械設備、当時の炭鉱の長屋等の展示がありました。また、山本作兵衛が書いた記録画も展示されていました。長年炭鉱で働いた経験を元に、炭鉱の様子(採炭、生活、娯楽、**)を絵筆で克明に描き、その絵に添えられた解説文が当時に採炭の様子や、生活の様子を分かり易く説明しています。これはユネスコの「世界記憶遺産」に登録され、最近注目されています。これは、炭鉱の記録画として、インターネットでも楽しむ事が出来ます。

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伊田竪坑第1と第2煙突と三井田川鉱業所伊田竪坑櫓

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炭鉱節発祥の地」の石碑

3.ぼた山

 石炭を掘った際に発生する捨て石を、炭鉱のそばに高く積み上げていました。現在は、土木工事での再利用などで、かなり減少したようです。飯塚駅の近くにあるぼた山は、緑に覆われ、ぼた山と言われないと分かりません。

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飯塚駅近くのばた山

 

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