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富岡製糸場を見学

 富岡製糸場は、明治政府が明治5年(1872年)に日本を近代国家にするため建設した我が国最初の機械式製糸工場で、当時は世界一大きい製糸工場でした。
 現在の日本の外国への主要な輸出製品は、自動車や電子・機械製品です。江戸時代の末期(1862年)の輸出品は、蚕糸類86%、茶8%。明治初期(1872年、明治5年)では、蚕糸類67%、茶23%で、日本の輸出品は蚕糸が主でした。その後、繭の生産は昭和5年には399,000t、平成15年には775tに減少し、時代の移り変わりとともに、日本の主要輸出品から消えてゆきました。
 開国(1868年)直後の日本にとって、繭から生糸をつくる製糸工程は人力や前近代的な小規模な器具によるところが多く、日本より生産量が少ないフランスやイタリヤの製品よりも、品質は大きく劣っていたようです。このため、これらの国々と同様に大規模な器械を装備した近代的な製糸工場を稼動させ、製品の量・質ともに高めていくことが、国力を高めるのに欠かせないものでした。
 明治政府は、フランス人技師ブリューナノ指導でフランスから繰糸機械や蒸気機関等を輸入し、養蚕業の盛んな富岡に日本初の器械製糸工場を設置しました。当時は世界でも有数の規模であり、数百人の工女が日本全国から集められました。工女の労働環境は充実しており、後に日本全国に建設された製糸工場に繰糸の方法を伝授する役割も果たしたようです。
 富岡製糸場の正門を入ると、正面が東繭倉庫。現在は、1階は展示室として利用されていますが、当時は2階に乾燥した繭を貯蔵していたようです。当時、繭は年一度の収穫ですので、1年通して生産するには倉庫が必要でした。建物は、木材の枠組みの間にレンガを積み重ねる「木骨レンガ造」で、レンガ造りの美しい「明治5年建設の建物」を現在見る事ができます。
 工女に技術を教えるために、日本へ来たフランス人教師が生活した「女工館」、指導者が住んだ「ブリューナ館」、繭から生糸を操る作業が行われた「操糸場」などが、当時のまま残っています。「操糸場」の屋根をささせる「トラス構造」の主要部には大きなボルト。現在のボルトの頭は六角形ですが、正方形の形状です。また、光りを入れる構造で、ガラス窓が多く使用され、フランスから輸入したガラスが現在も残っていました。
 昭和60年頃から外国から安い生糸が輸入され、国内の多くの製糸業が廃業となり、富岡製糸場も昭和62年に115年にわたる操業を停止しています。その後、富岡市に寄贈され、富岡市は、県、国とともに管理されているようです。平成19年にユネスコ世界遺産暫定リストに登載され、「近代化遺産」として価値が見直されています。

 富岡製糸場の所在地は、「富岡市富岡1番地」。現在、日本の主要な輸出品の車を生産する「トヨタ」の所在地は「豊田市トヨタ町1番地」。100年後のトヨタの姿が楽しみです。

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富岡製糸場玄関

 

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